「私たちの世界の捉え方について」


 B-01
[投稿者 アノニマス(一般読者)様]

クライオニクス論パートUのU-06〜15にかけて次のような記述がありますが、世界をこのように捉えてしまうことは、個人的主観に偏り過ぎてしまわないでしょうか。
本文U-06〜15より引用
「私たちが事物や事象の意味を見抜かない限り、それらは私にとって存在しないということであり、その意味を把握しない限り、この世界にある事物や事象の存在を確かめたことにはならないのです。つまり、存在とは、私たちが生きるために、まずその対象に意識を投じ、自分にとってそれらがどのような意味があるかを見抜いたときに初めて確かめられるのです。」....(中略)....「私たちはたとえ同じ対象に対しても、それぞれの立場から違った解釈を持っていることが重要なのです。」....(中略)....「私たちの生にとってより身近に実感できる空間や時間の意味を把握する方が、はるかに本当の存在を捉えているといえます。」
[投稿者 清永怜信]

当サイトを開設するまでに届いた一般読者様からの投稿です。議論の輪を広げるためスレッド化しましたが、以下の回答はあくまで清永の現時点における私見であり、議論のための参考にして頂ければ幸いです。皆様からの御意見をお待ち致します。

現代ほど私たちが存在根拠を欠いたまま生きなければならず、精神的不安からの救済を求められている時代はありません。それは、かつてディルタイらが着手した生の哲学への回顧であり、フッサールらによる現象学的な物の見方への再評価に繋がっていきます。私たちが生きていく上で、世界を自分なりに利用できるように解釈することは極めて大切なことです。つまり、自分が生きていくうえで様々な事物や事象をどのように意味づけるかにより、主体的な生を構築することが可能になるからです。たとえいかに正確な世界像であっても、それらが自分の生に活かしていくことができないなら何の意味もありません。 しかし、質問者が問いかけるように、このような世界像が極端な個人主義や主観主義に結びついてしまうことはないのでしょうか。自分の生の立場から世界を捉えれば狭窄的な視野に陥ってしまい、もしかすると短絡的にはそのように思えるかも知れません。

しかし、人間は社会的動物であり、そもそも自分一人だけで暮らすことは不可能です。個人的な生を意味づける価値観の形成にも、一般的な社会通念や他者との共通理解が深く織り込まれているはずです(U-18〜19参照)。つまり、他者の存在があるからこそ、初めて私という存在が成り立つという図式がここから浮かび上がってきます。現象学的に捉えられた価値観や世界像を持つことが、直接的に個人主義に陥ってしまうことは原理的にあり得ないと思います。
 




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