「死を科学的に解決する試みについて」


 B-01
[投稿者 アノニマス(一般読者)様]

クライオニクス論序章0-14〜15にかけて次のような記述がありますが、死を科学的に解決しようとすることは、やはり人間には許されないのでしょうか。
本文0-14〜15より引用
「これまでにも、死について科学的なアプローチをかけようとした試みはありました。ところが、現時点において、こうした試みが成功したという話は聞いたことがなく、それらのすべてとは言わないにせよ、どこかカルトっぽい、危険で胡散臭いものを感じてしまいます。これはおそらく誰もが感じる率直な印象です。その印象の奥底にあるものは、死を解決することができるわけがないとする常識と、死を科学的に解決するということに対する何らかのタブー感情です。」....(中略)....「しかし、誰もが生まれてきた以上は、何とか生きたいと願い、無条件で死にたいと願う人はいません。つまり、すべての生きる者にとって、生きようとする意志こそが最も大切な出発点であるはずです。なぜこのことがもっと真正面から問われなかったのでしょうか。言葉を換えて言えば、私たちが死に対する不安と絶望を心の中で感じているにも関わらず、死を科学的に解決することを拒む理由はいったい何でしょうか。」
[投稿者 清永怜信]

当サイトを開設するまでに届いた一般読者様からの投稿です。議論の輪を広げるためスレッド化しましたが、以下の回答はあくまで清永の現時点における私見であり、議論のための参考にして頂ければ幸いです。皆様からの御意見をお待ち致します。

クライオニクス論の出発点は、私たち一人一人の個としての命をじっくりと鑑み、捉え直す機会を設けたいということにあります。DNAによって支配を受けた生殖機械に過ぎないとする世界(パートT参照)では、私たちの存在目的は個体が受け継いできた遺伝情報を次の世代へと引き渡していくという、種を保存する生殖活動によって言い尽くされてしまいます。ここでは、私たちが生まれてから主体的に獲得してきた様々な経験情報は死によって失われ、いわば初期化されてしまうのです。人間はこの運命をどのように解釈すればよいか、これまで悩み続け、いたたまれず魂の救済を神に託してきたのでした。しかし、科学技術が今日のように発達してくると、ただ信じる者は救われるという図式から、理屈によって納得したいとする論理的あるいは実証的な考え方も出てくることでしょう。それでは、私たちが生きていくにあたっての不安をどのようにして解決していくことが出来るか、私たちにそれが許されているか、ということが質問者の意図ではないかと思います。

まず、死を科学的に解決するという表現の受け止め方に注意する必要があります。確かに、私たちが神のように不死になるという考え方は唐突に過ぎ、生命倫理学の観点からも現実的ではありません。クライオニクスは決して不死を目指す科学技術ではないということです。クライオニクス論が展開しようとしていることは、私たちが置かれている有限の生を運命として受け入れるが、その死をどう受け止めるかという点にあります。つまり、やがて不可避に訪れる死に際して、個体が積み上げてきた経験情報を完全に破壊してしまってよいか、というたった1つの論点です(パートU参照)。私たちの魂の永続性を科学技術によって裏づけられるなら、クライオニクスは死を科学的に解決することに繋がっていくだろうというのです。自らの死を解釈し、限られた生を支えようと努力することは、私たちのような生きとし生けるものにとっては当然の行為であり、もちろん許されるべきものだと思います。私たちは今一度個体の死を真正面から見つめ、何ができるかを真剣に考える必要があるのではないでしょうか。




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